~お悩み上等地球人のBLOG~

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他者と自分を比較していませんか

あなたは他者と自分を比較して自分はなんてダメなんだろうと落胆した経験はありませんか。『あの人は自分より頭がいい』『あの人は自分より慕われている』『あの人は自分より・・・』と。

私にはよくあります。劣等感の塊が服を着ているような人間である私は、すぐに他者と自分を比較して、己のいたらなさに苦悩し、みじめな気持ちになります。自分がうまくいっていないときはなおさら、周りの人間が器用に思えてしまいます。

 

なぜ私たち人間は他者と自分を比べてしまうのでしょう。理由は簡単です。なぜなら人は相対評価によってしかものごとの価値を測ることができないからです。よく魚を釣り上げたとき、その脇にタバコの箱やライターを置いて写真を撮りますが、これはそうしないと魚の大きさが分からないからですよね。人間も同じです。周囲の人間と比較することでようやく自分の立ち位置や価値を確定できるのです。他人は自分を映す鏡とはよく言ったものです。

 

でも必要以上に他者と比較するのはあまりよくなさそうですね。そのことに気付いてから、私は、他者と自分を比較して落胆しそうになったとき、すぐに頭を振って、『自分は自分。ひとはひと』と言い聞かせます。ではなぜこれがよくないのでしょう。それには次の3つの弊害を伴うからです。

自分自身の否定につながる

比較してもそもそも変えられないというストレス

自分以外の何者かになろうとしてしまう不幸

 

①自分自身の否定につながる

『あの人に比べて自分は・・・』と考えることは自分自身の否定につながります。なぜなら、他者と自分を比較すると、たとえ自分が勝っている部分があったとしても劣っている部分にばかり目がいってしまい、いつしかそれが拡大解釈され、自分という存在が劣っていると考え始めるからです。

例えば、自分と同世代の芸能人や実業家が社会的に成功しているのを見て、『あぁ自分は今まで何をして生きてきたのだろう』と考えてしまうのは誰にでもある経験だと思います。でもこれは虚しさがつのるばかりでいいことがあったためしなんてありませんよね。きっとその芸能人や実業家だって我々には見えない苦悩を抱えているはずなのに、そこを度外視して自分より優れている部分ばかりにフォーカスし、自分はなんて駄目なんだと考えてしまっているのです。こうやって自分自身を否定することは、今まで積み重ねてきた時間が無駄だったと思うことにつながりますが、これは人間にとってこれ以上ない苦痛です。たとえ周囲が自分のことを認めてくれたとしても、自分で自分のことが認められなければその称賛も嘘に聞こえてしまいます。自分で自分を否定して、自尊心を損ねてしまうと、なかなかそこから出てこれないのです。

こんなふうに自分を否定してしまうとき、次のように唱えましょう。『いまの自分が全部ちょうどいい』と。このフレーズは、『あなたの人生がつまらないと思うんなら、それはあなた自身がつまらなくしているんだぜ。』という、ひすいこたろう氏の著書の中に出てきたものです。『いまの自分が全部ちょうどいい』。自分自身を否定してしまうときは、自分自身を全肯定するフレーズをぶつけてやれ、という着想です。

もちろん、他人と自分を比較して、劣っている点があればそれを改善する努力をすることは素晴らしいことです。でも、それを拡大解釈して自分自身を否定しないで欲しいのです。劣っている点を含めて自分自身ですし、あるいは、劣っている点を見て改善しようとしたり悶々としたりしている点も含めて自分自身です。そんな自分を認めてあげましょう。藤井聡先生は、こうやって、いい点も悪い点も含めて全てを肯定する心を『運命愛』と呼び、大勢の大衆にはこの心が欠如していると言っていました。

他者と自分を比較して、自分自身を否定しそうになったとき、少し落ち着いて『いまの自分が全部ちょうどいい』と唱えましょう。それが運命愛に満ちた賢い人間の行動パターンのようです。

 

②比較してもそもそも変えられないというストレス

『いまの自分が全部ちょうどいい』というと現状の自己肯定を推奨しているように思えるかもしれません。しかし、繰り返しにはなりますが、他者と自分を比較して自分自身に至らない点を見出した時、それを改善する努力をするのは素晴らしいことです。安易な現状肯定を称揚しているわけではありません。

でも、比較したところで世の中には変えられないものが沢山あります。というより、殆どがそうなのではないでしょうか。例えば、『あの人の部署は人間関係が良好で』とか『あの人の会社は年収がよくて』なんて比較、どんなに羨んだとしても自分の力ではどうしようもありません。自分の力で変えられないものを変えようとするのは大きなストレスになります。こんなときこそ『運命愛』が最も求められている瞬間と言えるでしょう。つまり、『いまの自分が全部ちょうどいい』と唱えるのです。

でもただ、耐え忍ぶだけなんて苦しいという人も多いと思います。もしどうして変えたいと思うなら、変えられるところを少しずつ見つけていきましょう。つまり、ここで要求されるのは、変えられるものと変えられないものを見極める見識眼と、変えられないものを受け入れる賢明さです。そしてもし、変えられるものがあったとしても、他者と自分を比較するのはやめにした方がいいでしょう。他者と自分を比較すると、『あぁ、自分は今まで何をして生きてきたのだろう』となり、意識が過去に向かいがちでネガティブになってしまいます。一方で、変えられるものを少しでも改善しようとあれこれ考えたり、何か行動を起こしたりするのは、意識が未来に向かうのでポジティブになれるものです。

他者と自分を比較して羨んでも、変えられないことが殆どですが、もし変えられるものがありそうなら、それをしっかりと見極め、視点を未来に向けることが大事といえそうです。

 

③自分以外の何者かになろうとしてしまう不幸

自分らしく生きることが幸せだと定義する私にとって、自分以外の何者かになろうとすることはその対極に位置します。

目の前に成功している誰かがいると、それが自分の辿り着きたい本当の姿かどうかを考えずに、そうなろうと目指してしまうことがあります。本当にそうなりたいのなら別にいいのですが、そうでない場合、自分以外の何者かになろうとしています。これは、自分自身を否定する行為であり、さらに自分の形を無理やり他者に当てはめようとしている点で、変えられないものを変えようとしている行為です。つまり、この③は、①と②の複合ケースだと言えそうです。

自分以外の誰かになろうとする努力はいずれは必ず限界がきて、苦しみを生みます。私は、大学院の頃、大好きな女の子がいました。でも、好き過ぎてあまり上手に話すことが出来ませんでした。いっぽう、私の同期の男友達はその子といつも仲睦まじく、有体に言えばイチャイチャしていたのです。どうして自分はああなれないのだろう、といつも思っていました。彼のようになり、好きな女の子に振り向いてもらうため、私は自分の性格を矯正しようと試みました。彼のように堂々と振る舞ったり、彼のように自分の意見を押し通したり、彼のように女の子に対して甘い言葉を囁いたり、彼のように流行りの音楽を聞いてみたり。でも不可能でした。自分以外の何者かになろうとするのは非常に苦痛でしたし、なによりそんな努力続かないのです。でもよく考えれば、私は、その女の子と仲良くしたいのであって、その男友達になりたいわけではありませんでした。彼のような『成功ケース』が目の前にあるから、それを安易に猿真似しようとしてしまいましたが、別に、その女の子と仲良くするには別の方法だってあったはずです。(ちなみに私はその後、告白して玉砕しましたが)

他者と自分を比較し、憧れ、安易に自分以外の何者かになろうとしないで下さい。時間は掛かるかもしれませんが、しっかりとこうなりたい自分というのを探して、それに向かって努力する方が幸せになる筈なのです。

 

【まとめ】

他者と自分を比較することで生じる弊害を3つあげましたが、その根底に共通するのは、自分らしさを失ってしまうという弊害です。本来は他者と自分を比較しなくていいのです。今までの人生であなたが経験した苦労や悲しみ、楽しいことはあなたという唯一無二の存在を作ってきました。そこには同じものは二つとありません。それなのに、我々は数値や成果といった目に見える共通の指標で相対評価することにより、簡易的に人間に序列を与えます。それにこだわりすぎると、自分らしさを失って不幸の特急列車に乗り込んでしまうことになります。

私は、お受験戦争の真っただ中のとき、SMAP世界に一つだけの花が大嫌いでした。ナンバーワンよりオンリーワンを目指すなんて甘い幻想だと。でも今は、この歌詞に脊髄反射的に反発することはなくなりました。